どうも最近、仕事で使う資料や実務寄りの本ばかり読んでいた反動なのか、「完全に娯楽としてのミステリを読みたい」という気分が高まっていた。そんな中で手に取ったのがアンソニー・ホロヴィッツの『死はすぐそばに』だった。
以前『カササギ殺人事件』を読んで面白かった記憶があったのと、装丁がスタイリッシュで深く考えずに手に取った。これが、予想していた”気軽さ”とはまったく別の読書体験になって、ちょっと後悔ののちにとても満足する体験ができた。
アンソニー・ホロヴィッツとは
おそらく、ほぼ確実に読書好きな方にとってアンソニー・ホロヴィッツはいまさら「とは」などという解説が必要ない作家だろう(後でググって知りました)。シャーロック・ホームズの続編や007シリーズを任されるほど評価されている作家だ。
僕が読んだ『カササギ殺人事件』は、本格ミステリの枠組みを二重構造にして読者を楽しませてくれたと評価が高かったようだ。本作『死はすぐそばに』も、語り手は著者ホロヴィッツ本人(カササギ〜は、編集者が主人公で作中作の謎を追う、というメタ構造になっている)。フィクションとノンフィクションの境界で語られるメタ構造のミステリという点では共通しているが、読書体験としてはまったく別物だった。
読むのが正直しんどすぎる前半
紹介だけ見ると「おお、面白そう」と思うのだが、前半は正直しんどかった。
テムズ川沿いの高級住宅地リヴァービュー・クロースで、金融業界のやり手がクロスボウの矢を喉に突き立てられて殺された。昔の英国の村を思わせる敷地で住人たちが穏やかに暮らす――この理想的な環境を乱す新参者の被害者に、住人全員が我慢を重ねてきていた。誰もが動機を持っているといえる難事件を前にして、警察は探偵ホーソーンを招聘するが……。あらゆる期待を超えつづける〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズ最新刊!
じっくりと事件の被害者、「金融業界のやり手」が「嫌な隣人」なのだ。そして、その嫌さが、近隣の住民とのエピソードを通して丁寧に語られていく。それが、自分のトラウマをいろいろと甦られてきて言いようのない感情で終始もやもやした。不快感というか、怒りというか、諦めというか……。私は大学生時代、お金がなかったこともありかなり安く借りられるアパートで住んでいたのだが、隣人に恵まれず、嫌な思いをいろいろとした。
ある住人はジョン・レノンの「イマジン」をリピート再生しながら寝たのか外出したのか、何時間にも渡って延々とイマジンを聴かされるハメになった。WIREDの記事では「大音量で曲を繰り返すことは(略)『標準的な尋問技術』だ」とされている。まあ、確かに自宅を出る自由まで奪われていた訳ではないのだが、隣人の蛮行のために自分が行動しなければいけないというのが業腹なので二重に腹が立つ。
最近では居住するマンションの理事会で散々な目にあった。過去の栄光が忘れられない隠居のご老人が暇に飽かせてやらなくていいことに首を突っ込み、あれをやれ、これをやれ、と色々指図をしてきて、こちらが紳士的に対応するとそれが気に食わなかったらしくメールでの個人攻撃が延々と続いた。ロジカルに反論し続けていたら最後は何故か納得したらしく「お前もやるな」といった主旨のことを言っていたが、こっちは暇じゃないんだよ……。
と、トラウマが甦ってしまい非常にしんどかった。作中で描かれる、生活音でマウントを取る些細な嫌がらせ。細かい言動や表情の積み重ね……。一線を踏み越えないように周到に繰り出される嫌がらせは、明確に抗議することすらできないし、抗議するにしても「個人」として対峙しなければならないのが本当にしんどい。仕事上のトラブルは会社としての対応ができたり、少なくとも愚痴をこぼす相手が豊富にいたりして救われるが、隣人トラブルはそうはいかない。丸裸の個人、として対応しなければならないのは意外にかなりのストレスだ。
正直、物語の構造上の必然があるのだろう、フィクションだ、とわかっていても、ページをめくる手が重くなる。
一気に面白くなる中盤〜後半
しかし、中盤で事件が起きた瞬間、読書体験がガラッと変わる。それまで「嫌だな」と思っていた些細な人間関係のひずみが、すべて伏線として機能し始めるのだ。あの人のあの言動はそういう意味だったのか。あのときの小さな衝突がここにつながるのか。このコミュニティの空気そのものが事件の原因なのか——と、急にパズルのピースがはまっていく感覚。
本作の探偵役ホーソーンの推理が動き始めたところで、作品全体が急に加速する。無愛想で、語り手であるホロヴィッツに対しても冷淡だが、その観察眼の鋭さと推理の精緻さは圧巻だ。前半で描かれていた住人たちの小さな言動や態度が、すべて意味を持ち始め、事件の全体像が徐々に浮かび上がってくる。
しんどかった前半が、後半のカタルシスのための”必要な負荷”だったのだと理解できた。この構造は非常に計算されていて、読者に「嫌な空気」を体感させることで、事件の背景にあるものをより深く理解させる仕掛けになっている。頑張って読んで良かった。
日常に潜む”悪意”を考える
振り返ると、『カササギ殺人事件』と本作はまったく読書体験が違う。『カササギ殺人事件』は構造の妙、メタ性、読者へのサービス精神に満ちた作品だったと思う。一方で、『死はすぐそばに』は日常の嫌さ、人の小さな(そして底知れぬ)悪意をリアルに描いた”社会スリラー寄りの本格”と言えるのではないだろうか。
同じホロヴィッツなのに、ここまで振れ幅があるのかと驚く。特に、『死はすぐそばに』は「ミステリを読む快楽」より、「人間関係の疲労」を一度受け止めさせてから面白さに到達させるという構造になっている。この”しんどさ→面白さ”のスイッチの入り方は、先日読んで記事を書いた佐藤究『テスカトリポカ』や劉慈欣『三体』で感じたものと似ている。前半の積み上げがしっかりしているからこそ、後半のシンプルな終焉が成立する。一人ひとりの人物の歴史がじっくりと語られてドラマが展開していくのは厚みが感じられるし、それがあるからこそ、後半の展開に説得力が生まれる。前半は頑張るものなのだ(実用書やNetflix映画になれてしまって、前半の努力がちょっと辛くなってきているのかもしれない……)。
読後に残ったのは、ミステリとしての面白さだけではなく、人間の小さな悪意がどれほどの破壊力を持つのか、という空恐ろしいような感覚だった。
『テスカトリポカ』で描かれていたのは、人をビジネスのための素材としてしか見ない極端な暴力だった。それは日本に住む私たちにとってはリアリティを感じられないレベルの危険や犯罪だ。一方、『死はすぐそばに』で描かれるのは、日常にある”隣人との些細な摩擦”。その積み重ねが殺意の種になるという事実の描き方が、妙にリアルだ(ネタバレになるので詳しくは書けないが、極度に利己的な理由で他者を傷つける行為もまた、ある種の静かな悪意で隣人トラブルと性質は違うが地続きのものとしてある種のリアリティを感じることができた)。
『死はすぐそばに』というタイトルが示すのは、暴力や犯罪は遠い世界のものではなく、私たちの日常のすぐそばにあるという事実だ。善人と悪人の二項対立ではなく、さまざまなグラデーションの悪意と死が私たちの周りには潜んでいる。
まとめ:気軽に読めない。でも読んでよかった一冊
読後にAmazonのレビューを見た。「期待していたとおりのクオリティ」「過去4冊とは全く異なるスタイルで書かれたものだが、そのテクニックはより一層磨かれているよう」という声が上がっている。過去作を4作もすっ飛ばして読んでしまった……。
一方で、「トニー(アンソニー・ホロヴィッツ)とホーソーンが一緒に行動するシーンがなんだかんだ気に入っていたので、それが無いのが寂しい」という意見も。シリーズファンにとっては、この二人のやりとりが楽しみの一つだったようで、今作の構成には賛否両論があるようだ。
興味深いのは「ホーソーンシリーズはだんだんマンネリ化していたが、今回は過去の事件を描きながらも進展した。これまでのコメディタッチではなく、シリアスモードに入ってきた」という指摘があったこと。確かに、全体的に不穏な空気が流れる、人間の暗部に焦点を当てた作品だったように思う。
引き続き、実用書に疲れた頭をほぐす一冊を探しているので、改めてシリーズ一作目から読んでみようかなと思う。
Photo by Ron Szalata on Unsplash


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