小学校の学級文庫になぜか「アマゾンの不思議」みたいな本が置いてあって、半魚人がいる!とか、ピラニアに人が襲われた!とか、いま考えると「嘘でしょ」って話が石原豪人みたいな挿絵とともに満載の本が置いてあって、夢中で読んだことを憶えている。多分その時から、いま・ここではないどこかで起こっている(かもしれない)未知なるものに対する好奇心に火を付けられてしまった気がする。小学校の学級文庫にこういう選書はどうかと思う気持ちがないではないけれども、子どもの好奇心を育てるという意味ではいい仕事をしたなとも思う。
そして、そういう好奇心を現代怪談に向けるきっかけになったのは『新耳袋』シリーズとの出会いだった。これも出会いをはっきりと憶えている。地元のスーパーの近くにあった小さい古書店。グレーのスチールの棚。そこに置いてあった『新耳袋』一巻を手にとってパラパラ読んですっかりとりつかれてしまった。祖父江慎のブックデザインも最高だった。そこからすっかり現代怪談好きになってしまった。
現代怪談考について
最近は実話怪談ブームもひところより落ち着いたのか、ネタが少なくなってきたのか、あまりまとまったいいものがないな、と思いつつ、ちょこちょこ本を読んだり、サブスク動画サービスで怪談系の番組を観たりしていた。もう何年も前だけど、深夜のファミレスで新進の怪談作家が仲間とネタ出し会議をしているところに出くわしたりして「まあ、そういうものだよね」というなんだか醒めた気持ちになってたのもあるかもしれない。そんななかで、怪談系の番組でたびたび見かける吉田悠軌さんの『現代怪談考』が出たのを知った。
姑獲鳥、カシマ、口裂け女、テケテケ、八尺様、今田勇子――そのとき、赤い女が現れる。
出典:https://www.shobunsha.co.jp/?p=6874
絶対に許せない人間の「悪」。深淵を覗き込んだ時、そこに映るものは何か。
現代怪談に姿・形を変えながら綿々と現れ続ける「赤い女」。そのルーツとは。現代人の恐怖の源泉を見据えることで明らかになる「もう一つの現代史」。赤い女の系譜を辿りつつ、その他重要な現代怪談のトピックについても探索していく。浮かび上がる「ミッシングリンク」とは。怪談の根源を追求する、吉田悠軌の探索記、その最前線へ。
著者の吉田悠軌さんは怪談サークル「とうもろこしの会」主催者で、さまざまな怪談番組などでゲストとして登場しており、私も何度も番組を観ている。なんとなく優しそうな紳士的な雰囲気でどちらかというと好きな話し手の一人。自己紹介でよく「とうもろこしの会」というネーミングの由来※が紹介され、怪談もどこかユーモラスな話が多い印象があったので、こういった論考の本を出されているのが意外だった。しかも晶文社から。なんとなく晶文社は、平野甲賀の印象がつよく、なんというか怪談系の本を出すイメージがなかったのです。
※「とうもろこしの会」は、サークル活動で公共施設を予約する際、怪談サークルだとばれないようにするための仮の名前なのだそう。
内容としては、ネットロアも含めた現代怪談に登場する「赤い女」というモチーフについて考察しながら、私たちが恐怖しているものはなにか、ということに対して考えを深めていく、というもの。
怪談の愉しみを膨らませるシステム思考
冒頭からあくまでも、著者の妄想めいた考えにもとづくもので、理論的な論考ではなく、研究でもない、という断りが何度も入れられる。そして、怪談に携わる人間は出来事の虚実の真実を問うのではなく、その虚実の合間を行き来することに興味があるのだと明かす。
意外に思われるかもしれないが、私をふくめ現在の「怪談」文化に携わる人間は、霊的な事象の実在を証明せんとする「心霊」とはスタンスが異なる。「怪談」界隈の人々は、「心霊」に対してやや醒めた距離感で臨んでいる場合がほとんどだ。
『現代怪談考』p.243
これはまさに、怪談にはまってしまった人がたどり着く、ひとつの怪談の楽しみ方の極致だと思う。私自身も、怪談は好きだが、心霊現象に対しては不可知論的な立場でいる(少なくともそういう立場でいたいと思う)。いま・ここではないどこかに「何かあるかもしれない」という想像力を膨らませて楽しんでいる。世界がどんどん見慣れたものになっていってしまうつまらなさに対して「アマゾンの不思議」みたいな異物を挟み込んで、安全圏内から日常を異化したいのだと思う。
そして、怪談好きの一部は、怪談の愉しみを膨らませていくために、いつしかシステム思考の使い手になっていくんだと思う。システム思考は、さまざまな現象の関係性を相互に関連しあう「システム」として捉えていく考え方。
引用した著者がいう「醒めた距離感」とは、まさに怪談を取り巻くシステムを鳥瞰するために必要な距離なのだと思う。人々と現代社会、虚と実、こういった要素が絡まり合って起ち上がってくる物語、怪談を、その物語の背景まで含めて捉えていく。そうすると、怪談そのものを個別の物語と大きな物語と二度どころか三度、四度愉しめるようになってしまう。なんというか、自分が求めている未知に対して真摯に追いかけている人の話を聞けた気がして、不思議な満足感を感じる。
また近々、改めて『新耳袋』シリーズを読み返してみようかなと思う。そして、ずっと気になっていて踏み切れていなかった、松谷みよ子の『現代民話考』を探して買おうかな、と思った。復刊リクエストを出しているものの復刊の見込みはなさそうだし。全巻揃えたら、またノードとノードがつながって、自分なりのミッシングリンクを発見した気持ちになれるかもしれない。
Photo by Gwendal Cottin on Unsplash
コメント