川上未映子さんの『春のこわいもの』を読み終えた。6編が収められた短編集。 妻が妊娠・出産の際に『きみは赤ちゃん』を読んでいて勧めてくれたり『早稲田文学増刊 女性号』を読んでいたので、新刊が気になり読んだ。
『春のこわいもの』について
感染症大流行(パンデミック)前夜の東京――〈ギャラ飲み〉志願の女性、ベッドで人生を回顧する老女、深夜の学校へ忍び込む高校生、親友を秘かに裏切りつづけた作家……。東京で6人の男女が体験する甘美きわまる地獄巡り。これがただの悪夢ならば、目をさませば済むことなのに。『夏物語』から二年半、世界中が切望していた新作刊行!
出典:川上未映子 『春のこわいもの』 | 新潮社
収められている作品は以下。
- 青かける青
- あなたの鼻がもう少し高ければ
- 花瓶
- 淋しくなったら電話をかけて
- ブルー・インク
- 娘について
装幀は名久井直子さん。装画はAlex Hanna「Sweet dreams 1」oil on canvas、だそう。
Alex Hannaさん、存じ上げなかったですが、描線が気持ちよくて物語を感じられる絵でいいですね。
どの短編もとてもこわかった。 といっても暴力的でもなく、心霊的な現象が起こるわけでもない。 日常のなかに潜んでいる、なんというか普通ではいられない状況や気持ちが描かれていく。
こういう恐ろしさをしっかりと見つめながら、ぼう然とするのでもなく、なかったことにするのでもなく、物語に定着させていくことができる作家というのは本当にすごいなと思った。こわいものって何かに定着させてしまうと本当になってしまいそうで。それこそこわい。
どこで聞いた話だったか忘れてしまったけれど、ホラー作家のスティーブン・キングは自宅のクローゼットの扉が少しでも開いていると恐ろしくて寝られない、というエピソードを聞いたことがある。 何かを定着させていくと、自分自身も変わっていってしまうんじゃないだろうか。そう思うとそれもこわい。こちらのブログにキングのクローゼット恐怖を象徴する短編の紹介が。スティーヴン・キング『子取り鬼』 – キング (スティーヴン) スティーブン・キングは、日常に潜む恐怖をテーマにするのがとてもうまくて好き(借りた本の返却忘れの恐怖とかまで!)なんだけども、結局超常現象によって回収してしまうので最後に全く怖くなくなるというところが残念。
『春のこわいもの』で、とくにこわかったのは、「あなたの鼻がもう少し高ければ」、「ブルー・インク」、「娘について」の3つ。
「あなたの鼻がもう少し高ければ」は自分の容姿に自信が持てない女性が、整形手術費用を得るためにギャラ飲みを周囲の取り巻きに斡旋するSNSのインフルエンサーに憧れ、 ギャラ飲みに参加するために高級ホテルで面接を受ける話。
「ブルー・インク」はプラトニックで繊細な信頼関係でつながっている高校生の男女が、失くしてしまった手紙を探しに深夜の学校に忍び込む話。
そして「娘について」は高校時代の親友に対する親しみや嫉妬、悪意などの複雑な感情について、久しぶりに相手からかかってきた電話で思い出し振り返る話。
どの話もどこかに本当にありそうな、(程度はあるだろうけど)現実味のあるシチュエーション。そこで私たちが暮らすこの世界のねじれやどうしようもなくいびつになってしまう私たちの気持ちが、それぞれの話に仮託されて、とても赤裸々に描かれていると思う。
未読の方に向けて具体的に書く事は控えようと思うが、特に「ブルー・インク」と「娘について」、自分自身でも思い当たるところも多く、恥ずかしさや恐ろしさを強く感じた。「あなたの鼻がもう少し高ければ」はすごくこわいんだけども、なんというか直接的ではなく、美醜を金銭に換えてしまう、そういう社会の構成員でいるこわさで、身につまされ度が少し低かったのかもしれない。
「ブルー・インク」のこわさ
「ブルー・インク」について。
身近な人に申し訳ないことをしてしまったとき「申し訳ない」という気持ちを持ちつつ、その申し訳なさに耐えることができなくて、何かと理由をつけて相手を攻撃することで身を守ろうとしてしまうことがある。本当は、申し訳ないことをしてしまったら、謝り続けるしかない。もうやってしまった事は取り返しがつかないことだから。
そして、もし許されるのであれば、自分が申し訳ないことをしてしまって、その申し訳なさを感じていること、それに耐え難いことを伝えて関係性を続けていくことを探るしかない。もし、それができなければ、離れ離れになっていくしかない。そういう現実を突きつけられた。
「娘について」のこわさ
「娘について」。
愛情ゆえに、という大義名分を隠れ蓑にして、子どもを思い通りにコントロールしなければ気がすまない親(もしくはどうしてもそうしてしまう親)。そして、 自分が何者になりたいのか、本当の気持ちを理解できないがために、他者から気楽、のんきと思われるような態度で過ごさなければならない娘。そして、その娘を断罪し、自分の優越を感じるための道具にしてしまう「私」。 他者に対する十分な理解がなければ、簡単に「上昇志向」「効率性」といった型通りの価値観にとらわれてしまって、他人のありのままの姿などとても受け入れられない。なんなら、相手を梯子から蹴落として、ありのままではなく、上昇志向や効率性といった競技場に引き戻して、自分の優位なポジションを確保したい、少なくとも自分の方が優秀だと思わせたい——そういう自分自身にもある、醜い、恐ろしい部分を改めて認識してしまう、そういう短編だった。
「こういう日常があって、そこにはこういうこわさがあるよね」と語りかけられる
私は常に自分の身近な人が何か恐ろしい状況に出くわすのではないかと漠然とした不安を感じ続けている。 今もそれは変わらなくて、とくに突発的な交通事故や理不尽な誰かの八つ当たりみたいな暴力にさらされるのではないかという不安が拭えない。それに最近はコロナも加わった。こわい、だってこういうものってどれだけ準備していたって意味がないものだから。
でもこの短編集を読んで、さらに身近なところや社会全体に、どうしようもなく、こわいものが潜んでいるんだなと思った。Netflixのドラマで「ストレンジャー・シングス」というものがある。このドラマでは日常の世界の裏側に、奇妙で凶暴な生き物がいる鏡像世界がある、という設定になっている。この感覚はとてもよく分かる。なんとなく天国や地獄、みたいによい事や悪い事はこの世界とは別のところに存在していて、何か特別な出来事があったときにそこに足を踏み入れてしまうような。
でもじつは、こわさは普段の何気ない日常の中に現実と分かちがたく潜んでいるんだなということを思った。
どの短編もとくに何の回収も、意味付けもされない。「こういう日常があって、そこにはこういうこわさがあるよね」「思い当たるところあるよね」と語りかけられているようだった。「確かに」と思う。そして、そのこわさのなかに過ごす身近な人を思う。
じゃあ、どうするか。とりあえず、耐えるしかない。そして身近な人に思わぬ悪意を向けぬように気をつける。想像力を発揮して他人のことを傷つけてしまわないように、自分のことを偽らないように気をつける。普段の仕事で、少しでもいびつな誰かをつくり上げてしまわないような、そんな環境をつくれるように努力を続ける。
そういうことを思わせてくれる短編集だった。
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